「手相はどちらの手で見るのか?」という話です。
左右で手相が違う場合、どのように見方・意味が違うのかを離れ型を例に説明します。
これも流派によって違いがあって、私もつい最近悩んでいた部分なのですが、大体の見方はどれも結局は一緒です。
まず一般的な方法について述べるので、離れ型手相の例を知りたい人は下の目次をクリックして飛んで下さい。
手相は左右どちらの手で見るのかという問題
「手相はどちらの手で見るのか」という最も基本的な話ですが、一番最初のステップであるのにも関わらず、これも流派によって違いがあり諸説あります。
例えば、私の知る有名な方法だけでも3つはあります。
①左手が先天的(潜在能力)な手、右手が後天的(現在の状況)な手
②利き手が先天的な手、逆側の手が後天的な手
③指を自然に組んで下になった方の手が先天的な手、逆側が後天的な手
これらの他にも「エネルギーを受け取る手/それを表現する手」といった表現を使用している人や本なども見かけたことがあります。
しかし、どの立場においても「両手で総合的に見る」という結論は変わりません。
従って、これらの立場の違いはあまり気にし過ぎるべきではないと考えます。
パッと両手を見て、手相が左右で「全く違う」・「ちょっと違う」・「殆ど同じ」ぐらいの印象で判断すれば良いのではないでしょうか。
それに最後に述べるように、手相の「先天性/後天性」を左右で見る見方はあまり理にかなっていない気がします。
ちなみに、私は割と最近まで③の「指組みの下側」を先天的な手とする方法を支持していました。
これに特別な理由はなく、私が初めて手相に興味を持った際にそう教えられたので何となくそういう立場でいたのですが、その付近に関する話を改めて色々調べていると、どうもこの手法を支える理論(「利き脳」説)は怪しいものだと思うようになりました。
そういうこともあり、別にどちらの手から見るとかは違うのかなと今では思っています。(2021/08/31現在)
「利き脳」説に関する話
そもそも、上記に挙げた各鑑定法を支えているであろう「利き脳」という話は科学的根拠がない話なのです。
「利き脳」説、すなわち「右脳人間」や「右脳が発達していると創造性が豊か」といった話について一度は耳にしたことがある人は多いのではないでしょうか。
しかし実際には、そのような「優位な脳」や「得意な脳」というのは人間に存在しません。
それどころか、最近の研究では(従来、左脳が特化しているとされていた)言語処理などでも両方の脳が使われているということが分かってきています。
ですから正確には、左脳と右脳は「機能が違う」、それだけなのです。
確かに、既存の研究では大半の人において言語処理は左脳、視覚空間の処理は右脳に特化したつながりがあると明らかになっています。
右脳が傷つくと空間認知に影響が出たり、逆に左脳の一部が傷つくと失語症になったりします。
そしてまた、交叉支配といって、「左手の神経と右脳」・「右手の神経と左脳」は繋がっています。
しかし、それだからといって「左利きの人はクリエイティブ」だとかは決して言えないのです。それは拡大解釈です。
脳の機能が左右である程度分かれている。脳は逆側の手を支配している。事実はこれだけです。
にもかかわらず、少なくとも日本では何故かこの「利き脳」説が多くの人に信じられていて、それは手相でも例外ではないということです。
私が「指組みの下側」を先天的な手とする方法が怪しいと思ったのは、そういう事情を改めて知ったからということがあります。
(※まあ、そういうことを言い出すと「手相」自体根拠がない話なのですが。だからこそ、私は手相の為の手相研究をやっている所があります)
手相が両手で同じ・違う場合の意味(離れ型手相を例に)
それでは手相が両手で違う場合はどう鑑定すれば良いのかという話ですが、離れ型を例に説明したいと思います。
離れ型を例にした理由は2つあります。
①自分や家族を含め、身近な人のサンプルが多い
②大きく変わることがない先天的・遺伝的要素が強い手相であること(従って、左右の違いだけを考慮することが出来る)
そして、結論を先に述べておきます。
両手で同じ:手相通りの性質・行動が表れる。
→それ故に現実の状況に苦しむかもしれない。しかし、努力次第で変えることが出来る。
少し違う(同じ):おおよそ手相通りの性質・行動が表れる。
→それ故に理想と現実のギャップに苦しむかもしれない。だからこそ、悔いが残らないように努力することが肝心。
両手が違う:矛盾した手相の性質・行動が表れる。
→理想に向かえないことに苦しむかもしれない。そのため、まずは現実をある程度満たした上で何を本当に望んでいるのかを突き詰めるのがいい。
両手の手相が同じ・少し違う場合
①両手の手相が同じ場合
これは悩むことがないでしょう。その線の意味をそのまま適用すればいいと思います。
離れ型であれば、「リスクテイカー(向こう見ず)」な傾向にあると言えるでしょう。
現実と理想・潜在能力の間に出方の差があまりないので、そのギャップに苦しむことはないでしょう。自分の能力を素直に発揮出来ると言えます。
しかし、後に述べることにも関係するのですが、その現実が良い・苦しいものであるかは別問題だと私は考えます。むしろ、現実と自分のポテンシャルにギャップが少ない分、現実の状況に苦しめられる可能性は高いかもしれません。
手相本には「手相がよければ良い」とか書かれていたりします。
ただ、努力すれば現実も改善して理想に近づくことが出来るタイプでもあるので自分次第だと言えます。
②両手で少し違う場合
手相が少し違う場合、それらはやはり同じような傾向で現れるというのは間違いないでしょう。
例えば右手が1cm程度離れた離れ型で、左手が3mm程度の離れ型などである場合、やはりその人には離れ型の傾向が現れます。
問題は、どの程度その手相の傾向が現れるのかということです。
これは原則的に、その人のポテンシャル(理想)は大きい方に規定され、小さい方に現実が制限されると考えるのがよいと思います。
従って、現実ではその手相の傾向は小さい方の傾向として現れます。
先程の例では、左手の3mm程度の離れ型の傾向として「現実の行動は」現れると思います。
しかし、本当は1cm程度の離れ型が振舞うように振る舞いたかったと後悔します。「もっとリスキーな事をしたかったのに」という思いが付きまとうことになります。
もしくは、自分では十分冒険をしたつもりなのに、後で考えてみると「少し尻込みしていたかもしれない」と消化不良に思うことが多いのではないかと思います。
旅行で例えると、本人の頭の中では最初にハワイまで行っていたのが、あれこれ考えた結果結局は沖縄旅行に決めたという感じでしょうか。
もしくは、海に行きたくなって思い切って沖縄に行ったものの、どうせならハワイに行っておけば良かったと後悔するというイメージです。
けれども、離れ型でない人はそもそも旅行にまでは出かけない。そういうイメージです。
これは、器に水を注ぐような関係です。
結局、どれだけ大きな器を持っていても注ぐ水の量が少なければ器は余ってしまいます。また、その逆にどれだけ水を注いでも器が小さければそれ以上は注ぐことが出来ないのです。
けれども、水はある程度注げているので、それはそれで良いのではないかと私は考えます。
これがどういう結果に繋がるかというと、自分の理想と現実のギャップに苦しむかもしれないということです。
「もっとうまく出来ないものか・開き直ることが出来ないものか」と、中途半端に手相通りの能力・性質(すなわち運や業)がある分悩むことになると思います。
自分の最終的な選択に後悔が付きまとうことが多くなるかもしれません。しかし、それは何というか、消化不良なもどかしさみたいな感じです。
そして、その状況を変えるために努力が有効な場合もあれば、それこそどうしようもない部分があります。特に、離れ型などは先天的要素が強い手相なので変わる見込みが少ないです。一方で、太陽線の一部など後天的な手相が違うのであれば努力も有効だと考えます。
ですので、現実や結果に納得するために、悔いが残らないぐらい努力をするという方向性が良いかもしれません。
手相が両手で全く違う場合
③手相が両手で全く違う場合
理想と現実のギャップで苦しむことになります。ただ、それはどちらかというと、理想への未練のような形で表れるはずです。
例えば、右手が離れ型で、左手が生命線と知能線の始点が同じ手相である場合、本人は離れ型のように振舞いたいものの、結局、現実では生命線と知能線の始点が同じ手相のように行動する傾向にあります。
それで結果的に、その理想と現実にどう折り合いをつけるのかという作業が必要になってきます。
このタイプ(左右で全く違う手相)は、手相本には「矛盾を抱えている」とか書いてあったりします。
私が思うのは、このタイプの人が理想(潜在能力)と現実のギャップで悩むのは、どちらかというと理想(潜在能力)に対する折り合いだということです。
理想(潜在能力)がボヤッとあって、そういう理想に関わりを持てないことにモヤモヤを感じつつも、取り合えず現実を生きている感じがあります。
上2つのタイプと異なり、そもそも相異なる性質や才能を持ち合わせているため、素直に理想に近づくことは難しいのです。
そこで私が提案したいのは、やはりまずは生活の基盤となる現実、お堅い道を固めてしまうことです。
その上で、何をしたいのか・望んでいるのかということを考えるのが良いと思います。
というのも、相反する性質が混在しているので、まず片方を固めてしまわないと見えてこないものもあるのではないかというのがこのタイプの手相です。
逆に言えば、固めるものさえ固めてしまえば理想も見えてくるので、後はそれとどう付き合うかを考えれば良いのではないかということです。
私が提唱する手相の見方(線・エリアによる分類)
最近私が考えるのは、手相における「先天的(才能)/後天的(努力)」という分類は「右手・左手」という左右の区別で行うのではなく、線の種類によって行うべきではないかということです。
何故ならば、線やエリアによって明らかに先天的要素と後天的要素の現れやすさに明らかに違いがあるからです。
例えば、今回の例で挙げた「離れ型」というのは、後天的にその間に線がかかることはあっても、完全にくっついてしまうということはほぼ100%起こりえない手相です。
ですから、それは「先天的」なものとして、今後その傾向とどう付き合っていくのかという指針を自分の中で立てるべき線なのです。その上で、左右の違いを考慮すれば良いでしょう。
また、以前に紹介したビアラシビア線をはじめとした月丘下部や金星丘下部というのは、手の構造的に線が後天的に入りにくいエリアです。とすれば、そういう部分の線は精神面を表していることが多いということです。
これは左右関わらず、入っていればそういう傾向・状況にあると考えるべきでしょう。
一方で、例えば島型やフィッシュ型を始めとした紋の多くは「後天的」なものです。
それが片手・両手問わず手に現れているということは、そのタイミング的な対処に注力すべきで、見逃してはいけないサインです。
特に生命線上に現れた薄い線の島などは治療可能な病気を表している可能性があるので、そういうサインが例え「先天的な手」に現れていようが、一応病院に行って検査を受けるなどの対処した方がベターです。
また、以前に紹介したビューティ線のように、手の使い方というのも当然「後天的」なものですから、利き手がどちらかということも関係してきます。左利きの人間であれば、左手に出やすいでしょう。この時、右手が「後天的」とする立場の説は成り立ちません。
このように「左手・右手」という区別ではなく、「線・エリア」による分類で手相は見た方が良いのではないかと、最近私は思っています。
そして、それこそが手相家達が述べる「両手で総合的に見る」ということなのではないでしょうか。
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