私の「占い」に対する考え

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「占い」そのものに対する考え

私は「占い」そのものに対して、以下の大きな考えがあります。

現実を豊かにして自身の人生を踏みしめるために「使い・捨てる」べき

②(自然)科学によって理論に一定の客観性が保証されていること

③占い師(読み手)の能力で大きく結果が異ならないこと

占術は大きく「命・ト・相」の3つに分かれますが、

この考えを踏まえて、私が「占い」として認めているのは命術では「(西洋)占星術」、相術では「手相」だけです。卜術は基本的に私は認めまていませんし、扱いません。

例えばタロットを始めとしたト術はまさに確率の占いですが、原則的に一回の試行で運命を予測しようとするのは感覚的にも信じられません。

(似たような理由でホラリー占星術も信じていません。)

気休めに利用するならばいいのですが、後に書くようにそれは中毒的に現実から目を背けさせることがほとんどなので、私自身は取り扱わないことにします。

命術・相術、及び占星術と手相については後述します。

「占い」は使い捨てるべき

占いに限らず全ての叡智は全体幸福を最大にするように利用されるべきだと考えますが、精神的な部分に深く関わる占いや宗教は「捨てる」部分が特に肝要だと思います。

何故ならば、人間は物質世界に生きているからです。

本来、精神の変化で物質面が良い方向へ傾くことを狙うのが占いや宗教の役割ですが、それに中毒的に依存してしまうと逆に物質面が吸い取られて更に悪くなってしまいます。

これでは本末転倒です。やはり現実を生きるべきです。ですから、あくまでゴールは現実を良い方向へ変えることです。

そのために「占い」にはハマりすぎない、ハマらせすぎないことです。

(宗教の立場では、釈迦も同じようなことを言っていますが)

理論を複雑化・感覚化させて教徒を集めて離さないのは、拝金主義のカルト教祖・詐欺師のやり方です。

こういう悪人達が信じているのは神でも宇宙でもなく、金です。幸せにしたいのは自分だけです。行いを見れば明らかです。

そういう拝金主義者が商売のタネである人の悩みを解決させることは構造的にありません。悩みが解決しないことを奥底で望んでいるからです。

そういう悪人を撲滅し、被害者を減らしたい。そう思っています。

だから私は「占い」を非常にシンプルかつロジカルにすべきだと考えるのです。

そうすれば依存することはないでしょう?全てが明確だからです。

「占い」は使い捨てるべきなのです。

そのために私は「占い」を研究しています。

自然科学による裏付け

(自然)科学を語らずして、オカルトは語ることは出来ません。

オカルトは科学では語ることが出来ないものだと私は信じているからです。

科学の範疇が確定するまでは「科学では語ることが出来ない」とも言えませんよね?

ですので、私は人類の叡智である科学を信奉しているのです。

まずは科学を十分に語って科学とオカルトの範疇を議論すべきです。

さて、科学を最初に語るべきという話は置いておいて、私が「占い」について自然科学で一定の保証がされる部分は主に以下の2点だと考えています。

1つは、何故それを検証することで個人の資質や運命が分かるのかという点。

もう1つは、何故それが「当たる」ということが出来るのかという点。

実は私は、占星術にせよ手相にせよ、それらが長い歴史で築き上げてきた理論自体にはあまり文句はないのです。(やはり多少文句はあるのですが。)

入口と出口・理論の一部が曖昧にされているのが納得できないという、そういう考えだということです。

特に「出口」の部分、「当たる」ということについては個人の主観に依らず、統計学的に有意な形で客観的に一定の保証がされるべきです。

言い換えると「当たる・当たらない」という2択の実感ではなく、「外れる」ことが確率的に一定の範囲内で保証されるべきです。

そうすればシステム化された占術理論は「何故か分からないが一定の有用性がある理論」という実用的な立場を得ることが出来ます。

そして残念ながら、如何に多くの人間を見てきた占い師でも統計が主観的である以上、これを厳密にやった人間はいないと言っていいでしょう。

(※ベイズ推定的に行うにしても、データの体裁が整っていない上、パラメータが設定されていません。)

私は「そういうプロジェクトを行いたい(誰か早く行えよ)」と考えていますが、先ほど述べたように占いに時間を費やし過ぎると物質面が疎かになり、もっと大切な人生の目標を達成できない恐れがあるので、まだ本腰は入れていません。(2021/07/31現在)

このブログは、そのための準備でもあります。

「占い師」は必要ない

私は、人々が占いに依存してしまう原因の一つに「占い師」という存在自体があると考えています。

これは自分の外部や地位に頼る姿勢というものを助長させるもので、自身で気付いて考えて変わるという成長の機会を「占い師」は奪っているように思います。

本来、大概の悩みや問題というのは自身が変わる・動く・受け入れる以外に解決方法はないのです。

ですので、私はなるべく骨組みとなる理論はシンプルかつロジカルにして「占い師」に特権的な「解釈」の余地を減らすことによって、誰もが自分で自分を知る・考える方法として「占い」を使えるようにすべきだと考えます。

あくまでも占術理論は理論として雛形を出力するだけで「解釈」は受け手が行えばいいと思います。そこは「占い師」の本来の仕事ではありません。

まず、自分の力で自分自身を知ろうとすることが大切です。

勉強でもなんでもそうですが、自分で考えてから人に質問するのと、何も考えずに人に質問するのでは成長や解決の仕方が全く異なります。

そして自分が限界まで考えた後の相談であれば、相談された相手も成長することができます。

すなわち、全体幸福の最大により近づくという訳です。

だから、本当は「占い師」なんて必要ないのです。

けれども同時に、自分の力で限界まで突き詰めてどうしても判断に迷った時の相談相手として「占い師」は姿を現しても良いとも思うのです。

ですので、ともかくまずは自分を知る方法として「占い」を誰もが使える・誰が使っても同じような形にしたいという思いです。

(※未来は本質的に知りえないものですから、未来予知的手法には疑念を抱いています。むしろそれこそが「占い」の本来の在り方で、資質を判断するのに使う方が誤りだという立場もあるかもしれませんが、まさにその態度が「占い」を薬物的なものにしているという私の立場を踏まえて下さい)

以上を総合して、私は「占いは理論を完全にシステム化した上で鑑定結果に統計学的検証を十分に行うことで一定の範囲の有効性を保証すべき」という立場を取ります。

占星術に対する考え―「脱・現代」

私は命術及び占星術にそこまでの信頼を置いていません(ええっ?)

大きな理由としては、時間と場所で個人の運命が決定づけられるという部分に未だに納得できる説明がないから(※1)です。

それこそまさしく「その星に生まれたから・在るから」という前提部分なのでしょうが、その部分に説明が出来ない以上まだオカルトです。インチキの類です。

しかし同時に、情報が完全であれば何故かある程度当たる(その傾向を見出すことが出来る)ものだと個人的には思っています。信じたいのです。

ただ、この「当たる」もキチンとした文脈と統計学的手法で証明されるべきだ(※2)とも思います。

そして占星術をオカルトでない「占い」とみなした場合、やはり私は自分を知る(人の隠された性質を予想する)手段として活用するべきだと考えます。

未来予知を目的とした予言師ごっこには興味がありません。

(この点に対して古典占星術を信奉する人は良い気がしないかもしれません。)

ですので、そういう視点で私が一番興味があるのは現代西洋占星術、ネイタルチャートの読み方で、これを如何にシンプルかつ統計学的に有意な形で解釈するのかということに私は関心があります。

もっと言うと、トランジットやプログレスにすらあまり意義を見出せません(※3)。

何故ならば、自分の特性と可能性を知り自分のすべきことが分かっている人は、頭の上で星がどう動いていようが別に何も関係ないはずだからです。

自分の人生に責任を持って生きていれば「良いタイミング」も自ずと分かるし選択に迷わないはずなのです。上手くいかない部分も見つめることが出来ます。

そして、出生時間が分からないならばネイタルを読むことは素直に諦めるべきだとも思ってます。

従ってそんな人は自分を知る方法として占星術は使えません。

しかし、それは自分が分からないという結論にはなりません。

(※アスペクトだけで読むのは無茶があります。強調先の役割が分からない限り何とも言えないはずです。また、「レクティファイ」と呼ばれる手法も結局は「占星術を使う」という結論ありきの手法ですので懐疑的です。あくまで人間が先で星は後です。)

それに、いつ生まれたかなんて分からなくてもいいじゃないですか。

星なんて気にしなくて済むのですから楽ですよ。自分を把握するために別のアプローチをすればいいだけです。今を頑張るだけです。

そういう意味でも手相は平等ですのでもう少し信じています。

以上を踏まえて、私は「脱・現代」を目標に自分が納得する形に現代西洋占星術を書き直したいと目論んでいます。

そのためには古典西洋占星術・インド占星術といった理論体系、研究がキチンとされている他の流派から欠けた部分を取り入れる・併用する必要もあると考えます。

特に、現代西洋占星術は古典占星術をあまりにも無視しています。しかし同時に、古典占星術はその始まりからして未来予知的な目的を本質としますので、私は懐疑的なのです。

現代西洋占星術をある程度正統な流れに戻した上でそこから悪しき部分を取り除くことが「脱・現代」です。

以上には別に他の人が賛同する必要もないし、私も考えを押し付けようという気はあまりないです。

そもそも、所謂「普通」の感覚をしていれば時間と場所で運命が決まるという時点で占星術などにわかに信じがたい話だと思うはずです。

それでも占星術を知って人のチャートを見たときに「あれ?」と思ってしまった、そういう人に向けて「占星術」の項目は書いています。

(※1)
仮に可能性があるとするならば、ある時点での引力の釣り合い、「観測点」の状態が観測者の運命に影響を与えるというのがもっともらしいですが引力の影響はあまりにも微小ですし、それは科学的にも証明(シミュレーション)が難しいことなので、疑っておくのが賢明でしょう。

それに関連してコリスコ・コラーストロムの実験は興味深いものですが、それを根拠として占星術理論を直ちに「科学」と扱うのは無理があると思います。占星術理論における「入口」の部分はオカルトと開き直った方が賢明です。

(※2)
ミシェル・ゴークランの統計学的なアプローチは有名ですが、彼の研究の意義を私はまだ良く分かっていないのが現状です。整理が出来たら記事にします。

(※3)
プログレスやトランジットに可能性を見出そうとするならば、各タイミングで星の影響をどの程度受けているのか、影響の受けやすさがネイタルの配置にどう左右されるのかということが研究されなければいけません。その点でもやはりまずはネイタルです。

加えて、現代西洋占星術においてプログレスやトランジットは要素を追加するという点で「解釈」の逃げ道に利用されていることが多い気がします。出来るだけ少ない要素で適切に説明するという努力の放棄に他ならず、その点で否定的です。

手相に関する考え―「脳を中心とした身体のマッピング」

相術、中でも手相占いは数ある占いの中で最も信頼できる部類だと考えています。

例えば物の形を対象とする風水は少し信憑性が低いですが、それでも現実の視覚情報・日常の動線として明確にインプットされる情報を分析するという点では理に適っています。

姓名判断はさらに信憑性が低いですが、漢字の画数で名前の視覚的なバランスが決定されると考えられるので、それが無意識に与える可能性を考えると説得はできませんが私は納得できます。

そして中でも、手相や顔相といった身体的特徴を見る方法は個人の遺伝子情報や状態が身体的特徴として発現している部分を見るため一定の科学的な説得力があります。

特に手相は後天的な手の使われ方を考慮する上、手の使われ方は脳の発達の仕方と密接な関わりがあると考えられるため信憑性が高いです。

実際、手相はある程度親から遺伝します。

また、身体の末端部の成長は胎内で浴びたホルモンシャワーを良く反映していますから、所謂男脳、女脳、また性欲の強さの表れとして指の形や長さを見るというのも納得できます。

総合して、手相は「脳(神経)を中心とした身体のマッピングなのだ」と考えています。

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